胃ろうは是か非か

久しぶりの更新になってしまいました。

上京して1ヶ月ほど経ち、仕事としては少し落ち着いてきましたが、まだまだやりたいことへの道はこれからだなと実感する日々です!!

 

今回なぜいきなりこんなタイトル?って思われるかと思います。

以下の記事は、恥ずかしながらちょうど3年前の看護師なりたての頃の手記です…(結構長いです。笑)

臨床から離れた今、臨床で感じていた医療における様々な問題を忘れないうちにまとめておこうと思ってblogにUPすることにしました。

当時の考えと今ではまた違う点もありますが、そのまま文面を掲載しますので、内容や表現が稚拙であることはあしからずm(_ _)m

 

とある日の救急外来。

搬送されてきたとある老人。手足は拘縮し、体幹は丸々と肉付きの良い状態で「うわぁ、うわぁ」と呼吸のたびに呻き声のようなものをあげていた。

正直、その人を始めはおじいちゃんだと思っていたが、診察券を見ると女性であることが分かり、目を疑った。

なぜその人が男性だと思ったかというと、その呻き声は低く太く恐ろしいものであったのと、髪を短く切られていて、いかにも男性のような姿をしていたからだ。

手足の爪は伸びきり、色も黒〜緑色へと変色し、指先でSPO2(酸素飽和度)を測定できないほどであった。

 

そして何より、手足の拘縮がひどかった。手は拘縮予防のためかタオルのような物が握られていたが、残念ながらそれによって逆にタオルを握りしめた状態で指先は固く閉ざされ、そのタオルすらいつ洗ったものか分からないほど汚れが目立った。

 

足なんかは胎児様に屈曲されていたが、足趾部や踝には褥瘡とみられるものがあり、さらに拘縮のせいで開股できないほど関節が石と化していた。

 

検尿のオーダーが緊急で入ったため、導尿(尿道に管を入れて尿を排出すること)の準備をする。なんとそれが私にとって初めて行う導尿の手技であった。

しかし、完全に拘縮した股関節を力づくで開いて尿道口にカテーテルを挿入しなければならない。

もちろん1人ではできないため、同期に患者の膝をぐっと押して外へ開いてもらい、わずか両膝間が10cmほどしか開いていない状態で、清潔操作でピンセットを震える手でつかみ、カテーテルをつまんで尿道口を目指した。

なんとかうまくカテーテルが入り、尿器に黄色い尿が出てきてホッとしたのも束の間、尿検査に必要な量の尿が排出されない。

 

第一波はピュッと出てきたのに、続いて必要な量が出ない。膀胱を圧迫しても全然出ない。

結局、ほんの3mlほどのなけなしの尿だったが試験管に移し、とりあえず検査科へ送った。

 

…そうだ、胃ろうについて論じるつもりが長くなってしまった。

この患者の何が問題って、色々あるけれど、とりあえず肥満なのだ!

自力で動けず介護が必要な人が肥満であることは、どれだけ医療・介護を担う人間にとって負担となるか。

これは現場を経験したことのある人間なら誰しもよく分かることであろう。

 

自力で動けないということは、自力でご飯も食べられず、トイレにも行けず、体の清潔を保つ行為もできず、服も着脱できないということである。

であるのに、なぜこの人はこんなに丸々と太って生きていられるのか…?

それは彼女の腹部を見れば答えが分かる。

そう、胃ろうである。

 

呼吸すら辛そうで、自分の訴えも口に出せないほど弱っている状態で、手足もこんなに拘縮していて、きっと認知症にもなっているから、自分が今どこにいて、そして自分が誰であるのかも分からなくて、人のぬくもりさえ感じられなくなっていたとしたら、生きていることはこの人にとって幸せなのか疑問である。

 

この人はつまり、生きているというよりも「生かされている」のである、本人の意思とは関係なく。

こんなにも彼女を苦しめているのは何なのか。

と思った時、やはりお腹に付いているボタンみたいな物に目がいく。胃ろうだ。

ここから高カロリーな栄養が、特にこの人にとってはおそらく過剰な栄養が体内に投与されることで最低限の「生きる」ために必要な生体機能が保たれる。

 

しかし、この高カロリーな栄養のいけないことは、その人が自分でご飯を食べたり、身の回りのことをしたり、歩いたりできるようになるところまでは手伝ってくれないところだ。

いわば「生きている」というよりも「死ねない」状況を人工的に作り出している。

命を救うというより、生きる苦痛を長引かせるという言い方が正しいのかもしれない。

 

医療とは、命を救うことがあっても決して苦痛を長引かせることはしてはいけないと思う。

治療は常に可逆的なものだとは限らない。

むしろ高齢になってくると不可逆的な病の方が多い。

 

そこに、現代的な技術の発達した「医療」が介入することによって、「以前と同じように生きることができないただ苦しくて長い人生」が残されるということもあるのだ。

 

これが「胃ろう」という一見画期的なものを開発し、日本や世界中に浸透させた結末である。

 

もし自分が、口から物を食べられなくなった場合たいていは高次脳機能障害に陥っており、日常生活を送るのが困難になっているであろうから、胃ろうの造設は断固として拒否願いたい。

生きられないのに生かされることほどおそらく不幸なことはないであろうから。

 

これはあくまでも私の勝手な想像であり、ひとつの倫理観であるが。