1年経った!!!あれから!!

はてブロの存在忘れてました!さすが3日坊主!

最終更新から1年と自動送信メールが来て知った!

あれから、住まいも職業もプライベート面も何もかも生まれ変わった!!当時は想像だにしなかった状況!

想像を超えるほど自己実現の場に立てている!!

長々とこの1年を振り返ろうと思うので、お付き合い頂ける方だけどうぞ!

あれはちょうど1年前か!2017年3月に名古屋の病院を辞め、5月から八王子のクリニックへ!

情報技術のチカラで医療の課題解決をし、効率化をすすめ、医療職の働き方改革に繋げたい!現場を少しでも楽にしたい!そんな思いで上京を決意したのです。

入職したクリニックは遠隔診療を導入予定で、新規事業開拓を目的に入職したのたが、入職1ヶ月で新規事業の話が破談に!!何のために自腹で遠距離引越しをしたの⁉︎

貯めたお金返せと内心思うも、新規事業担当という内容での労働契約書を交わしてなかったので成すすべなし!

訴訟とか無理ゲーだと判断し、大人しく泣き寝入りw

その後、しかたなくそのクリニックでふつーの看護師業務をしていた。もちろんそれは本望ではない。

やりたかったことを実現するには何が足りないんだろう?知識・経験・コネクション??やる気??

とか考えて色々な人に相談するうち、看護師1年目の終わりに興味をもった医療経済学や保健衛生の動向などを思い出し、公衆衛生大学院(SPH)を受けよう、金はないけど!と願書締め切りギリギリに決めていざ受験勉強開始!!

1ヶ月の間は仕事と衣食住以外はリアルな話、勉強しかしなかった。専門書を立川や新宿まで買いに行く時間すらも惜しまれた。

とにかく科目が多かったし、ネットで調べた情報的には圧倒的に準備期間が足りないw

英語・統計・疫学・基礎医学・医療倫理・医療情報学…etc

興味の範疇が多かったのでやってて楽しかったが、詰め込みすぎて体力的にキツかったw

1ヶ月で統計検定2級合格レベルまでやった…

迎えた当日、問題形式が過去問とガラッと変わり、統計は完全に易化し、ほぼ全問正解に…他の科目は記述が増えた!!

小論文は対策不足でグダグダ…

やりきったはずだが、周り見ると競争率は3倍を超えてそうで終わってから不安しかなかった。

それから3週間後、真夏の暑い中発表を見に行くと………

不合格だ!!!やっぱりな!!

しかしまぁ、次の手を打っていたのと合格しても学費と時間の確保が難しかったのである意味安堵w

これだけ全力で何かに取り組めた1ヶ月は大きかった。むしろ2ヶ月以上この状態は保てなかっただろうw

次の手とは、気になる企業へのインターンシップだ。

病院経営に特化したコンサルに興味があった。なぜならば、自分のクリニックの経営がうまくいってなかったのと、風通しの悪さからか、スタッフが経営陣に不信感を持っていたからだ。

働く人が幸せになる病院ってどうやったら作れるの?と思っていた。

しかしインターンするとなると、週5でクリニック勤務ができなくなる。事務長にこっそり相談を始めていた頃、不運にも理不尽な揉め事に巻き込まれたため、9月途中で退職を決意。というか色々あったので労基署にも行った…泣

有給はなかったが、1ヶ月だけ出勤扱いで給料を出してもらうことになり、心置きなくインターンへ!これは感謝!

ところがその企業は完全にミスマッチだと分かった。

部署2つ経験したが、1つは完全にブラックでみんな辞めたがっていたのと、医療専門職としてのパフォーマンスを充分に発揮できる土台が整ってなかった。

もうひとつは、保健師業務の経験がないと難しいものだった。

とにかくコンサルはもっと先に目指すべき領域かなと思い、身を引いた。

とかやってるうちに1ヶ月の給与優遇期間が終わり、同時にクリニックは院長退職により閉院。

ちなみにプライベート面では、恋人とは遠距離になった挙句、クリニックが入職後1ヶ月で土曜も営業しだして最初と話が違う!!ってなってたけど仕方ないので土曜出勤せざるを得なくなり、まぁ物理的にお付き合い続けられなくなり血の涙を流して終わったな。

なのでまぁ、失恋と失業と院試不合格をほぼ同時に体験。よく死ななかったな!!

とまぁ、地獄はしばらく続きます。

長いので次の記事にします…

胃ろうは是か非か

久しぶりの更新になってしまいました。

上京して1ヶ月ほど経ち、仕事としては少し落ち着いてきましたが、まだまだやりたいことへの道はこれからだなと実感する日々です!!

 

今回なぜいきなりこんなタイトル?って思われるかと思います。

以下の記事は、恥ずかしながらちょうど3年前の看護師なりたての頃の手記です…(結構長いです。笑)

臨床から離れた今、臨床で感じていた医療における様々な問題を忘れないうちにまとめておこうと思ってblogにUPすることにしました。

当時の考えと今ではまた違う点もありますが、そのまま文面を掲載しますので、内容や表現が稚拙であることはあしからずm(_ _)m

 

とある日の救急外来。

搬送されてきたとある老人。手足は拘縮し、体幹は丸々と肉付きの良い状態で「うわぁ、うわぁ」と呼吸のたびに呻き声のようなものをあげていた。

正直、その人を始めはおじいちゃんだと思っていたが、診察券を見ると女性であることが分かり、目を疑った。

なぜその人が男性だと思ったかというと、その呻き声は低く太く恐ろしいものであったのと、髪を短く切られていて、いかにも男性のような姿をしていたからだ。

手足の爪は伸びきり、色も黒〜緑色へと変色し、指先でSPO2(酸素飽和度)を測定できないほどであった。

 

そして何より、手足の拘縮がひどかった。手は拘縮予防のためかタオルのような物が握られていたが、残念ながらそれによって逆にタオルを握りしめた状態で指先は固く閉ざされ、そのタオルすらいつ洗ったものか分からないほど汚れが目立った。

 

足なんかは胎児様に屈曲されていたが、足趾部や踝には褥瘡とみられるものがあり、さらに拘縮のせいで開股できないほど関節が石と化していた。

 

検尿のオーダーが緊急で入ったため、導尿(尿道に管を入れて尿を排出すること)の準備をする。なんとそれが私にとって初めて行う導尿の手技であった。

しかし、完全に拘縮した股関節を力づくで開いて尿道口にカテーテルを挿入しなければならない。

もちろん1人ではできないため、同期に患者の膝をぐっと押して外へ開いてもらい、わずか両膝間が10cmほどしか開いていない状態で、清潔操作でピンセットを震える手でつかみ、カテーテルをつまんで尿道口を目指した。

なんとかうまくカテーテルが入り、尿器に黄色い尿が出てきてホッとしたのも束の間、尿検査に必要な量の尿が排出されない。

 

第一波はピュッと出てきたのに、続いて必要な量が出ない。膀胱を圧迫しても全然出ない。

結局、ほんの3mlほどのなけなしの尿だったが試験管に移し、とりあえず検査科へ送った。

 

…そうだ、胃ろうについて論じるつもりが長くなってしまった。

この患者の何が問題って、色々あるけれど、とりあえず肥満なのだ!

自力で動けず介護が必要な人が肥満であることは、どれだけ医療・介護を担う人間にとって負担となるか。

これは現場を経験したことのある人間なら誰しもよく分かることであろう。

 

自力で動けないということは、自力でご飯も食べられず、トイレにも行けず、体の清潔を保つ行為もできず、服も着脱できないということである。

であるのに、なぜこの人はこんなに丸々と太って生きていられるのか…?

それは彼女の腹部を見れば答えが分かる。

そう、胃ろうである。

 

呼吸すら辛そうで、自分の訴えも口に出せないほど弱っている状態で、手足もこんなに拘縮していて、きっと認知症にもなっているから、自分が今どこにいて、そして自分が誰であるのかも分からなくて、人のぬくもりさえ感じられなくなっていたとしたら、生きていることはこの人にとって幸せなのか疑問である。

 

この人はつまり、生きているというよりも「生かされている」のである、本人の意思とは関係なく。

こんなにも彼女を苦しめているのは何なのか。

と思った時、やはりお腹に付いているボタンみたいな物に目がいく。胃ろうだ。

ここから高カロリーな栄養が、特にこの人にとってはおそらく過剰な栄養が体内に投与されることで最低限の「生きる」ために必要な生体機能が保たれる。

 

しかし、この高カロリーな栄養のいけないことは、その人が自分でご飯を食べたり、身の回りのことをしたり、歩いたりできるようになるところまでは手伝ってくれないところだ。

いわば「生きている」というよりも「死ねない」状況を人工的に作り出している。

命を救うというより、生きる苦痛を長引かせるという言い方が正しいのかもしれない。

 

医療とは、命を救うことがあっても決して苦痛を長引かせることはしてはいけないと思う。

治療は常に可逆的なものだとは限らない。

むしろ高齢になってくると不可逆的な病の方が多い。

 

そこに、現代的な技術の発達した「医療」が介入することによって、「以前と同じように生きることができないただ苦しくて長い人生」が残されるということもあるのだ。

 

これが「胃ろう」という一見画期的なものを開発し、日本や世界中に浸透させた結末である。

 

もし自分が、口から物を食べられなくなった場合たいていは高次脳機能障害に陥っており、日常生活を送るのが困難になっているであろうから、胃ろうの造設は断固として拒否願いたい。

生きられないのに生かされることほどおそらく不幸なことはないであろうから。

 

これはあくまでも私の勝手な想像であり、ひとつの倫理観であるが。

 

3月で名古屋を立つことになった件

はじめまして。

かなへいです。

 

名古屋大学卒業後、某病院にて看護師をやって3年目です。

このたび3月で退職し、4月から東京にて新たなステージに向けて走り出すことになりました。

 

これまでは看護師の仕事の難しさを、記憶力・体力・コミュニケーション能力・臨機応変さ・強靭な精神面などさまざまなところで感じてまいりました。

自分にとって天職といえるものか、自身の特徴や考え・行動の傾向にマッチするかなど、色々と考え直す機会がありました。

 

私は身長・体重が小学5、6年生の平均ぐらいしかないため、寝たきりの患者さんや体の大きい患者さんの移乗やケアのときにどうしても力が及ばなくて物理的にできないことが多くありました。また、患者さん側から「そんな小さいあなたに体を任せるなんて」と心配されることも多々ありました。

普通の体格の看護師には難なくできることも、いちいち背伸びしたり息を切らしたりしながらやらなくてはならないことがとても負担で辛かったです。その分、成長も同期より遅かったのも悔しいことでした。

 

これまでの経験から、やはり自分は1人の看護師として患者さん1人1人を看るのではなく、今の医療のシステムや看護の現場に新しい提案をして、より効率的でみんなが幸せになる方法を考えていくことを本業としたいなと考えるようになりました。(学生時代から薄々と思っていたことなので)

 

そこで今回、学生時代からのご縁でつながっていたとある医師にコンタクトを取り、自分がやりたいことを実現するためのアドバイスが欲しいため、会って話がしたいと申し出て、快く相談に乗っていただいたのが始まりです。そこで彼から「一緒に仕事をやってくれないか」と逆に頼まれるという思ってもなかったチャンスが到来し、自信があるわけでもないけれど、やってみようと決意した次第です。

 

今後どのような仕事を展開していくのか、また自分がこれまで抱いていた社会や医療に関する思いや、実現してみたいことなどを記事にしていけたらなと思います。

 

どうぞよろしくお願い致します。